長谷川栄雅と「日本の美」

2022.07.15

今も昔も日本の暮らしを支える「い草」

どこか懐かしい、爽やかな香りで心を癒してくれる「い草」。古くから日本では主に畳の原料として用いられている植物ですが、実は現代の暮らしにこそぴったりの力を持っています。その特徴や畳の歴史についてご紹介します。

国産「い草」のほとんどが熊本産

畳やござをはじめ、ラグマット、バッグなど、幅広い商品の素材として用いられている「い草」。漢字では「藺草」と書き、燈芯草(とうしんそう)とも呼ばれます。これは、かつて油を燃やして明かりをとる燈火(とうか)が使われていた時代に、「い草」の茎を燈芯としていたことに由来し、今日でも和蝋燭に使われています。

畳の素材となる「い草」は夏に刈り取られ、天然染土という泥に漬け込んだ後、乾燥。この工程により爽やかな香りが引き出され、色艶が増します。畳1枚には、茎の先端と根の部分が取り除かれた約4,000から7,000本ものい草が使われます。

国内で生産される「い草」は、ほとんどが熊本産。特に八代地方のものが有名です。これは1505年にこの土地の上土城主・岩崎主馬守忠久公が領内で「い草」の栽培を奨励したことが始まり。それから11年後の1516年、村は作物が実らず大飢饉に陥りますが、畳を作っていたことが村人たちの暮らしを救いました。以降、村人はさらに「い草」の栽培に励んだと伝えられています。これらのことから八代市の千丁町では岩崎公を「い草の神様」として岩崎神社に祀り、毎年4月と10月に大祭を開催。「い草」の生産者が参列し、岩崎公に感謝を捧げ、豊年満作を願います。

 

縄文時代に起源を持つ畳の歴史

「い草」といえばイメージされるのが、日本の伝統的な床材である畳です。その歴史は想像以上に古く、起源は縄文時代にまで遡ります。四千年前に竪穴式住居の中から、い草を使った敷物が発掘されており、二千年前には青森県の遺跡から縄文土器と共に、「い草」の織物が発掘されているのです。

奈良時代になると『古事記』『日本書紀』『万葉集』などに畳の記述が見られ、正倉院には聖武天皇が使用した畳の寝台が納められています。

平安時代には貴族の屋敷で座具や寝具とされている様子が絵巻物などにも見られ、室町時代になると茶道の発展によって畳の敷き方などが変化し、何枚も敷き詰めて一つの部屋とするように。この頃、日本独自の正座の文化も生まれたといわれています。

江戸時代には、江戸城内の座敷や屋敷の畳を管理する「畳奉行」という職が設けられるなど、さらにその価値が高まりました。また、庶民の家にも畳が用いられるようになると、畳師・畳屋といった職業も誕生。明治以降は、農村においても畳が用いられるようになりました。

昭和中頃からはマンションの建設ラッシュが進み、特に平成以降には和室のない間取りも多くなりました。それでも住宅の一部屋を和室にするなど、日本人には畳に安らぎを求める心が息づいています。

 

「い草」には優れた吸湿性や癒しの効果も

畳やござなど、日本で「い草」を使った敷物が発展した大きな理由は、湿度の高い気候に最適だったこと。「い草」には高い吸湿性があり、特に国産のものは外国産に比べて燈芯の密度が高く、雨天時には湿気を吸い込み、乾燥しているときには適度に湿った空気を放出する働きに優れています。

また湿度を調整する際に、空気をきれいにするといわれており、優しい香りの中には心を癒してくれるヒーリング効果も。その他にも抗菌作用など、嬉しい魅力がいっぱいです。日本で昔から活用されてきた「い草」の力が、忙しさに追われがちな現代に見直されています。