2022.05.25
ハレの日のご馳走だった「そうめん」
日本の夏を代表する食として、食欲がなくなった暑い日も、つるっと美味しくいただけるそうめん。その知られざる深い歴史や、冷や麦との違いなどをご紹介します。
奈良時代にそうめんの原型となる「索餅」が伝来
そうめんの原型と伝えられているのは、奈良時代に中国から伝わった「索餅(さくべい)」です。索餅は米粉と小麦粉に塩を加えて、こねて細く伸ばし、縄のようにねじった唐菓子のひとつ。現在のそうめんとはまったく異なる形で、うどんよりも太く、パンのように手でちぎって食べられていました。
当時、索餅はおもてなしやハレの日に並ぶ料理として、祭事や宮中行事の際に、貴族など身分が高い人たちの間で食べられていました。その後、室町時代になると、現在のそうめんの形、作り方がほとんど形成され、「索麺」などの言葉が使われるように。また、寺院の間食として食べられるようになりますが、それでも庶民が気軽に口にすることはできませんでした。
そうめんが庶民にも広がったのが、江戸時代。手軽に調理できること、日持ちすることなどから庶民の間で流行し、「そうめんといえば播州、播州といえばそうめん」と言われるようになりました。
一大産地・播州そうめんの歴史
播州そうめんが有名になったのは、その気候と歴史が主な理由です。
気候:播州地方は年間を通して穏やかな気候ですが、特に冬場に雨が少なく、比較的温暖です。そのため良質な小麦を収穫することができ、さらに赤穂の塩、揖保川の豊かな水といった自然の恵みが、そうめんづくりに適した土地でした。
歴史:播州地方のそうめんづくりの歴史は古く、揖保郡太子町の斑鳩寺(いかるがでら)で1418年に書かれた古文書に「サウメン」の記述が見られます。また、この地域でそうめんづくりが本格的になったのは江戸時代頃。龍野藩がそうめんづくりを奨励したことが理由だと考えられています。それ以降、生産量は増え続けますが、それに伴い粗悪品の増加が問題に。そこで龍野藩・林田藩・新宮藩内のそうめん屋が集まり、品質などの取り決めを定めた『素麺屋仲間取締方申合文書』を作成。さらに1887年には「播磨国揖東西両郡素麺営業組合(兵庫県手延素麺協同組合の前身)」を設立するなど、その味を厳格に守りつづけ、今日に続く素麺産地としての歴史を築きました。
冷や麦との違い、各地で愛されるご当地そうめん
そうめんと冷や麦の違いをご存知でしょうか。それは「太さ」「製法」です。
太さ:直径1.3mm未満のものがそうめん、直径1.3mm以上 1.7mm未満のものが冷や麦です。ただし、手作りの「手延べ」の場合、直径1.7mm以下のものでも素麺と記載できます。
製法:それぞれ製法も異なります。油を塗りながら手を使って、糸のように細く延ばすものがそうめん、薄く延ばした生地を切って作られるのが冷や麦です。
また全国には、独自の発展を遂げたご当地そうめんがあります。播州そうめんとともに、日本三大そうめんといわれるのが、1200年前に疫病退散のために作られた奈良の「三輪そうめん」、ごま油を使用する香川県の「小豆島そうめん」です。
その他にも、鮮やかな色合いで正岡子規など文人に愛された愛媛県の「五色そうめん」、一般的な麺の半分ほどの長さの宮城県の「温麺(うーめん)」など、見た目や味が異なるものが各地に点在。今年の夏は、いつもとは一味違うそうめんを楽しんでみてはいかがでしょうか。